「警察が動いてくれないなら、私が動くしかない」
警察署からの帰り道、絶望の淵でそう誓った私に、迷いはありませんでした。母親として、じっと待っていることなんて、到底できなかったからです。
「必ず、この手で見つけ出してみせる」
その一心で始まった、私の孤独な捜索。
それは、心と体が少しずつ、でも確実にすり減っていく、あまりにも過酷な日々の始まりでした。
この記事では、私が自力で娘を探した1週間の、なりふり構わぬ行動の全てと、その中で感じていた焦りや無力感について、正直にお話ししたいと思います。
手がかりは、娘が残した「日常」の欠片
まず私が向かったのは、がらんとした娘の部屋でした。
何か少しでも手がかりはないか。机の引き出し、教科書の隅、クローゼットの奥…。娘のプライバシーを侵害している罪悪感に苛まれながらも、必死で何かを探しました。
次に開いたのは、パソコンのブラウザ履歴と、娘のSNSでした。
友達と楽しそうに笑っている写真。他愛のない日常の投稿。タイムラインをスクロールする指が、怒りと悲しみで震えました。
「どうしてみんな、普通に笑っていられるの…?」
世の中の全てが、私と娘だけを置いてきぼりにして進んでいるような、ひどい孤独感。いくら探しても、娘の居場所につながるような書き込みは、どこにもありませんでした。
祈るような思いでかけた、友人への電話
一番つらく、そして勇気がいったのが、娘の友人たちへ連絡することでした。
親しい友人のお母さんの連絡先を、スマホのアドレス帳から探し出し、震える指で発信ボタンを押す。コール音が、永遠のように長く感じられました。
「〇〇(娘)の母ですが…。何か、聞いていませんか…?」
電話口で事情を話すと、誰もが絶句し、同情の言葉をかけてくれました。でも、その優しさが、かえって自分の情けなさを浮き彫りにするようで、胸が張り裂けそうでした。
「何か分かったら、絶対に連絡します」
そう言ってくれる彼女たちの言葉に感謝しながらも、心のどこかで分かっていました。彼女たちにも、彼女たちの日常がある。私の娘一人のために、ずっと心を砕いてくれるわけではない、と。電話を切るたびに、深い無力感が私を襲いました。
すり減っていく心と体
その日から、私の生活は一変しました。
朝、ほんの少しの希望を胸に目を覚まし、娘が行きそうな場所を歩き回る。
駅前、ショッピングモール、昔よく行った公園…。スマホに入れた娘の写真を見せて、「この子を見かけませんでしたか?」と、見知らぬ人に声をかけて回りました。
ほとんどの人は怪訝な顔をして通り過ぎていくか、「見てないですね」と首を振るだけ。日が暮れる頃には、足は棒のようになり、心はすっかり折れていました。
夜、帰宅しても、食事の味なんて全くしない。夫との会話もほとんどなく、ただただ、眠れないまま朝を待つ。
仕事も、まともに手につきませんでした。心配してくれる同僚の優しさにも、「ごめんなさい」と心の中で謝り続けるだけ。社会から、どんどん自分が切り離されていくような感覚でした。
雨の中で、糸が切れた日
捜索を始めて5日目のことでした。
その日は朝から冷たい雨が降っていて、私は傘もささずに、娘が好きだった雑貨屋の前で、何時間も立ち尽くしていました。
「もしかしたら、ここに来るかもしれない」
そんな、何の根拠もない希望だけを頼りに。
雨に打たれ、体は芯から冷え切っているのに、不思議と寒さは感じませんでした。
その時です。お店から、娘と同じくらいの年頃の女の子たちが、楽しそうに笑いながら出てきたのは。その光景を見た瞬間、私の心の中で張り詰めていた糸が、プツンと大きな音を立てて切れました。
その場に、へたり込んで、声を上げて泣きました。
周りの人が、何事かと遠巻きに見ている視線も、もうどうでもよかった。
「もう、無理…」
体力も、気力も、全てが限界でした。
こんなことを続けていても、娘は見つからない。それどころか、私自身が壊れてしまう。
このままでは、ダメだ。
娘が帰ってきた時に、私が笑顔で「おかえり」と言ってあげられない。
雨に濡れたアスファルトの上で、私は、自分一人の力の限界を、痛いほど思い知らされたのです。
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