「場所は、〇〇駅前のネットカフェです。ビルの前で、うちの調査員が待っています」
鈴木さんの声を頭の中で再生しながら、私はほとんど無意識でタクシーに乗り込んでいました。
「〇〇駅まで、お願いします!できるだけ、急いで…!」
裏返った自分の声が、やけに遠くに聞こえました。
車が走り出してからも、全身の震えが止まらない。
ガタガタと鳴る歯を食いしばり、窓の外を流れる景色を、ただ無心で睨みつけていました。
1ヶ月。
あの子が家を出てから、もう、1ヶ月。
頭の中を、言いたいこと、聞きたいことが、嵐のように駆け巡っていました。
「どうしてこんなことをしたの!」
「どれだけ心配したと思ってるの!」
「怪我は? ご飯は、ちゃんと食べてたの?」
「…会いたかった」
でも、その何千、何万という言葉は、次の瞬間、たった一つの、巨大な不安に飲み込まれていきました。
(あの子に会ったら、私、なんて言えばいいんだろう…?)
怒ればいいの?
泣けばいいの?
それとも、笑って「おかえり」って?
どれも違う。どれも、しっくりこない。
1ヶ月という時間は、あの日、ハンバーグを作っていた私と、家出した娘との距離を、あまりにも遠く、隔ててしまっていました。
ネットカフェと、探偵と、娘
タクシーが駅前に着く。
私は、お金を払う手ももどかしく、転がるように車を降りました。
「鈴木さんですか?」
ビルの入り口に立っていた、スーツ姿の男性。電話の声と同じ、落ち着いた雰囲気の鈴木さんが、私に深く頭を下げました。
「お母さん、よく来てくださいました。こちらです」
彼の後ろについて、薄暗い階段を上る。
ネットカフェという場所に、私は生まれて初めて足を踏み入れました。独特の、空気が淀んだような匂い。奥のブースが並ぶ薄暗い通路を、鈴木さんに導かれるまま、歩いていく。
心臓が、もう破裂しそうでした。
そして、一番奥の、少し開けた休憩スペースのような場所。
そこに、ポツンと、小さな背中がうずくまっていました。
見間違えるはずがない。
あの日から、毎日毎日、夢にまで見た、娘の後ろ姿。
「……っ」
声が、出ない。
足が、鉛のように動かない。
私の気配に気づいたのか、その小さな背中が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを振り返りました。
1ヶ月ぶりに見た、娘の顔
痩せた。
最後に見た時よりも、頬がこけて、肌も荒れている。
着ている服も、くたびれて薄汚れている。
でも、何より違ったのは、その「目」でした。
私の顔を見た瞬間、娘の目に宿ったのは、恐怖と、諦めと、そして、私に対する、突き刺すような、冷たい拒絶の色。
その目を見た瞬間、私は、頭のてっぺんから冷水を浴びせられたように、完全に凍りつきました。
言おうと思っていた、全ての言葉が、消えた。
「どうして」も、「よかった」も、「会いたかった」も、全て。
あの子が私に向けている、鋭い刃のようなその視線が、母親である私を、完全に拒絶していました。
1ヶ月ぶりの再会。
私と娘の間には、重たい、息が詰まるような沈黙だけが、流れていました。
沈黙を破った、小さな声
どれくらいの時間、そうしていたでしょうか。
1分? 10分?
永遠にも感じられるような、硬直した時間。
先に沈黙を破ったのは、娘の方でした。
「………」
何かを言おうとして、乾いた唇がわずかに動く。
そして、床に視線を落としたまま、絞り出すように、消え入りそうな声で、こう言ったのです。
「…ごめんなさい」
その一言を聞いた瞬間、私の中で、何かがプツリと切れました。
堰を切ったように、涙が溢れ出す。
「ごめんなさい」じゃない。
私が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。
でも、今の私には、娘を責める言葉も、抱きしめる資格も、何もない。
私は、ただ、その場に立ち尽くし、声も出せずに泣き続けることしかできませんでした。
始まりの、終わり
「お母さん、ひとまず、帰りましょう」
鈴木さんが、そっと私の肩に手をかけ、娘に「行こうか」と声をかけてくれました。
帰り道、車の中での会話は、一切ありませんでした。
運転席の夫、助手席の私、そして、後部座席で、外をただ見つめている娘。
1ヶ月に及んだ、地獄のような捜索が、終わった。
でも、私の心は、安堵よりも、はるかに重たい絶望に、沈んでいました。
あの子は、帰ってきた。
でも、あの子の心は、1ヶ月前よりも、もっと遠い場所にいってしまった。
やっとの思いで取り戻した日常は、私が望んでいたものとは、あまりにもかけ離れた、冷たい現実の「始まり」だったのです。


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